食べ物を捨てる

僕は食べ物を捨てることになんの抵抗もない。

買ったはいいけど食べる気をなくしたまま消費期限を過ぎたものとかはガンガン捨てる。捨てるのが好きなわけではもちろんない。全然抵抗がないだけだ。

 

原因は僕の実家が料亭だったことにあると思う。

料亭だったら食べ物の大切さを教え込まれたと想像されるだろうしもちろんそうだ。うちの親は僕をそこそこお行儀偏差値高く育ててくれたし、食育もばっちりだった。

じゃあ何故捨てることに抵抗がないかって、思春期に店の手伝いを始めたのがきっかけだったんじゃないかと思う。時給500円。当時中学生だった僕には大金だった。

 

実家は割と高級志向の料亭で父もきちんとした職人で実際出す料理はどれも美味しかった。これは東京に出て色々なものを食べ歩いた今でもそう思うし、すっごい小さい盛りで3000円、コースで25000円とかの料理を食べてもひいき目抜きでうちの父親の方が美味しいんじゃないかと思う(父親が作るものは流石に垢ぬけた味ではないけどとにかく腕がいい)んだから本当に僕の父親はすごいと思っている。逆に僕の父親はそれ以外の趣味をほとんど持たずにただ家族や飼い犬を見てニコニコ笑ったり時々酒を飲んで悪酔いするだけの人生で読書も音楽もゲームもスポーツもやらないので、料理を作るためにうまれてきた妖精かなんかなんじゃないかと思っている。話がそれた。でも本当に妖精なんだよ。なんであんな人生が送れるんだろう。なんで妖精から僕みたいな思想の回遊魚が生まれてきたんだろう。

 

で、実家の手伝いを始めると、まあまあ高級な料亭だけあって接待宴会の予約が多い。これは時代もあった。バブルの残滓がまだあっておっさんを30人くらい集めて色を揃えて消すじゃなかった、酒を飲んで下品な話をしながら大騒ぎしてタクチケで帰るみたいな時代だったんだ。ハラスメントという言葉もまだなかったんじゃないかな。

そうすると若手は皆上司にぺこぺこするのが中心になって料理は食べない。今風の宴会みたいに大皿ドーンで取り分けるとかじゃなくて1人1人にコース料理を出すんだけどみんな上司ばっかり見てて料理にはあんまり手がつけられてない。上司も上司で高級料理は食べ飽きてるのかなんなのか、料理は気が向いたものだけ食べて、他はひと箸もつけないみたいなのが本当によくあった。あと、そもそも来ないとか。来ないけど来るかもしれないと言われるから料理は出す。しかしやっぱり来ない。

 

こうして宴会という名の戦が終わった後は、大量の食品廃棄が起こる。

繰り返すけど僕の父は腕がいい。それに僕は料理に対する妖精の真摯さをよく知っていた。生まれたときから見ているのだから。丁寧な下ごしらえの上の上品な味付けの煮物椀とか凄く手のかかる蒸し物のあんかけとか市場で良いものを選び抜いてきた上でぱりっとふわっと焼いた魚とかさくっと揚げたてんぷらとかが出る。そして冗談じゃなく4割くらいは手付かずで残っている。30人の飲み会なら締めて12人前ぶんくらいがそのまま冷えて放置されている。それを思春期の僕は黙々と捨てた。唾がかかっているかもしれないし箸でつまんでおろしたかもしれないし何より煙草臭いのだ。もったいないから持って帰るとかは、無かった。父の作った僕の大好物たちを黙々と捨てた。父のこだわりを、繊細な包丁づかいを、目利きを、情熱を、青いバケツに流し込んで水気を切って生ごみに出した。パートに入っているおばちゃんたちも慣れたものでとにかく捨てた。そこで僕の中の「食べ物を大切にしよう」という精神は死んだ。

 

死んだというか殺すしかなかった。皆もお母さんの作った得意料理を食べもせず放置してそのまま捨てる仕事をしてみてほしい。そこに感情を挟むのは無理だ。

別に長年そうしてきたわけじゃないがその時に壊れた「食べ物を捨てることへの罪悪感」という機能は10年以上たった今も回復していない。

 

余談だけど鯉は僕が知る限り活造りにされて根性ある魚第一位だ。身を削がれて頭と骨と尻尾と、わずかな骨周りの肉だけの姿にされてその上に自分の身を乗せられて、暴れないように頭と尻尾を竹串で貫かれて尚、自分の身を跳ね飛ばしながら皿の上で暴れたことがある。鯉は強い。鯉を捌くときはまず包丁の柄でガンガン殴って気絶させるのだ。普通の刺身と違って下処理が面倒な上に日持ちが極端に悪く、そんなリスクを負ってる割に別にめちゃくちゃ美味しいわけじゃないという欠点を補って尚、僕は鯉の洗いが好きだ。1匹捌くとその日のうちに消費しなきゃいけないから鯉はよく実家の食卓にあがった。地獄のようにあがった。それでも僕は鯉が好きだ。ただやっぱりコスパが悪すぎるのでもう実家では鯉を出さなくなってしまった。予約注文が入ればまた出すと思うけど。1966文字。